文学散歩
5-736
公開日 2023年10月01日
文学碑
【 秋山秋紅蓼句碑 】
「 山の桜が谷へちり いまも古里である 」
この句は、昭和29年の旧鰍沢町制60周年記念式典で、
秋山秋紅蓼が文化功労者として表彰され、町を訪れたときの作品です。
そして昭和35年に町内の有志によって、
上北町の妙法神境内に句碑が建てられました。
■秋山秋紅蓼(あきやましゅうこうりょう)■
本名は鉄雄。
富士川舟運とともに栄えていた呉服問屋大黒屋の二男として、
明治18年12月に生まれました。
青年時代まで過ごしたこの地ををこよなく愛し、
上京してからも故郷を偲ぶ作品を数多く残しています。
【 山口青邨句碑 】
「 薄雪の 滝と名づけて 野菊添えん 」
これの句は、山口青邨が十谷温泉を訪れたときに
その静寂の中の自然美に感嘆して詠んだ句で、
現在の温泉旅館源氏荘の敷地内にひっそりと佇んでいます。
■山口青邨(やまぐちせいそん)■
本名は吉朗。岩手県出身。
大正5年に東京大学工学部を卒業し、ドイツに留学。
大正11年に高浜虚子に入門し、
昭和4年に高浜虚子が山岡子規の「山会」を復活したのを契機に、
水原秋桜子らと共に入会しました。
俳人として優れた句を詠み、鉱山学者・写生文の第一人者としても活躍しました。
【 松尾芭蕉句碑 (1) 】
「 蓬來にきかばや 伊勢の初たより 」
これは明神町の富士水碑の隣にあるもので、
松尾芭蕉の弟子によって建立されたもの伝えられています。
しかし、芭蕉が鰍沢で創作したものかどうか定かではありません。
【 鰍門早発之詩碑 】
「 鰍門遥向駿河通急峡長難見鬼工
目送千山皆北走扁舟早巳到南中 」
現在、鰍沢中学校体育館横の駐車場敷地内にあるこの碑は、
甲斐の志士・山県大弐(やまがただいに)が鰍沢を訪れ、
富士川を下りながら詠んだものです。
内容は、急流を矢のように下る舟の速さを詠ったもので、
かつては鰍沢河岸の近くにあったそうですが、度重なる水害で埋没。
それを惜しむ有志によって、大正12年に再建されました。
【 竹久夢二歌碑 】
「 山国ははや秋風の立ちそめぬ
吾がおもう子にさやりあらすな 」
25歳の若さで病に倒れ、
他界した笠井彦乃に対する悲しみを詠ったものである。
【 望月百合子歌碑 】
「 限りなき空の蒼あり富士川の
激湍ありて今のわれあり 」
望月百合子は幼少の頃、養女として鰍沢で過ごしており、
この句は、波乱に富んだ自らの人生そのものを、
故郷の鰍沢への思いと共に詠ったものである。
○歌碑の建立に至るまで○
この二つの句碑は、どちらも大法師公園内に建てられています。
平成3年に望月百合子女史より、
大正ロマンを代表する画家・竹久夢二と笠井彦乃の愛の舞台となった縁の地に、
夢二の思いを残す歌碑を建てたいとのお話がありました。
ちょうど同じ頃、夢二の写真集に"かじかざわ"の風景が写っている事を聞き、
その場所を探したところ、富士川舟運時代の河岸の古い町並の、
素朴な風景であることがわかったのです。
そこで、この地を見下ろす大法師公園内に二人の歌碑を建立することとなりました。
【 高村光太郎文学碑 】
「 うつくしきものミ(満)つ 」
ダイヤモンド富士を拝む人気スポットとして整備された、
上高下(かみたかおり)地区の一角にあるこの文学碑は、
光太郎直筆で書かれています。
「うつくしきものミつ」とは、美しい物が三つあるということです。
「一つ目は富士山、二つ目はゆず、三つ目は住んでいる人の心の清らかさ」であると
言われています。
光太郎がこの地を訪れたのは、昭和17年10月14日新聞連載の随筆、
「日本の母"山道のおばさん"」の取材のためでした。
光太郎はこの時、眼前に迫る富士を見て、
「私は富士の名所を多く尋ねたが、こんな立派な富士は初めて仰いだ」と感嘆したといいます。
【 松尾芭蕉句碑 (2) 】
「旅人と我名よばれん初しぐれ」
青柳町1丁目諏訪神社にある碑。
芭蕉23歳の時の句が刻まれています。
【 松尾芭蕉句碑 (3) 】
「もろもろの心 柳にまかすべし」
こちらは、青柳町4丁目にある道祖神場 追妻稲荷大明神の句碑です。
【 与謝野晶子歌碑 】
「法隆寺などゆく如し 甲斐の御酒 春鶯轉のかもさるる蔵」
萬屋酒造の敷地内にある二つの歌碑。
与謝野晶子が、昭和8年10月にこの地を訪れた時に
詠んだ歌が刻まれています。
また、銘酒"春鶯囀"の名は、
この歌にちなんで付けられました。
■お問い合わせ■
萬屋酒造(ギャラリー六斎)
〒400-0501 富士川町青柳町1202-1
(TEL) 0556-22-2103
【 多田裕計の句碑 】
「 春雷のこだまぞきそふ甲斐の国 」
光由山本浄寺(日蓮宗)の山門を入ってすぐ左手に建つ句碑。
発句者は、俳句結社「れもん」の主宰だった多田裕計です。