富士川舟運
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公開日 2023年10月01日
富士川舟運
…舟運の黄金時代「塩の道」の要地であった鰍沢。
富士川舟運開通の歴史
富士山、赤石山脈と、周囲を3千メートル級の山に囲まれた
甲斐の国(現在の山梨県)は、その昔、交通の便の非常に悪いところでした。
江戸への流通ルートとしては笹子峠を山越えして行くか、
あるいは駿河の岩淵(静岡県富士市)まで、
人力か馬の背に荷駄をつけて運んで行くしかありませんでした。
しかし今から400年前、
徳川家康から"富士川開削"の命を受けた京都の角倉了以らの手により、
鰍沢から岩淵までの水路が開通したのです。
ちょうど信州往還と駿州往還の交わる地点に位置していた鰍沢は、
この開削によって富士川舟運の要衝地となり、
鰍沢河岸は流通の拠点として大きく発展していきました。
鰍沢における、富士川舟運の発展と繁栄
積荷について
当時の主な積み荷は「下げ米、上げ塩」と呼ばれました。
下り荷は甲州や信州から幕府への「年貢米」、
上り荷は「塩」などの海産物が中心だったからです。
陸あげされた塩は、桔梗俵に詰め替えられ、
「鰍沢塩」として甲州一帯はもとより、信州まで運ばれたと言います。
富士川舟運の運行システムについて
当時、富士川を行き交った高瀬舟は、
鰍沢から岩淵までの約72キロメートルを半日で下りました。
しかし帰りは、船に縄をつけて船頭たちが引っ張りながら、
同じ水路を4日~5日程もかけて上ったそうです。
(ちなみに、岩淵から江戸浅草へは15日程かかったようです。)
船頭たちの安全と信仰について
船頭たちは、明神町の七面堂を安全の守り神として深く信仰しました。
本殿内部の柱の金箔や、周りの12支にちなんだ彫刻などから、
そのころの鰍沢の隆盛を偲ぶことができます。
根付いた伝統と文化について
船は人や物を運び、
鰍沢には、全国から集められた物品・文化・風習が
次々と流れ込み、経済・文化の表玄関として栄えました。
現在も鰍沢地区に受け継がれている「鰍沢ばやし」や「山車」は、
富士川舟運とたいへん関係が深いものです。
例えば「鰍沢ばやし」は、
京都の「祗園ばやし」と江戸の「おはやし」が微妙に混ざっています。
山車は、上半分が浅草風で下半分は京都の御所車風。
かつて4月上旬に大法師山で催された「大法師桜祭り」では、
桜の下、江戸時代から伝わる鰍沢ばやしの笛太鼓に乗り、
賑やかに練り歩く4台の山車が見られました。
県内で最も古いこの山車は、貴重な文化遺産になっています。
その他にも伊豆松崎から伝わったとされるナマコ壁の技術、
伊豆訛りに似ている河内訛りなど、
舟運でもたらされた多くのものが現在の鰍沢に生きているのです。
宿場町としての繁栄
約7百年前に日蓮上人が開いた身延山へも舟運が便利で、
鰍沢は宿場町としても栄えました。
明治期には生活物資の出入りはもとより、
船を利用しての身延参詣の泊り客や、
東海道線を利用する客でたいへん賑わいました。
富士川舟運の最後と、鰍沢の今
繁栄を極めた富士川舟運でしたが、
明治44年の中央本線の開通によって物資の輸送が鉄道へと移り、
300年余りのその歴史に幕を閉じました。
しかし終焉から100年以上が経った今でも、
舟運がもたらした様々な伝統や文化、貴重な石碑や資料の数々は、
しっかりとこの町に息づいています。