富士川舟運
…舟運の黄金時代「塩の道」の要地であった鰍沢。
【 富士川舟運開通の歴史 】
富士山、赤石山脈と、周囲を3千メートル級の山に囲まれた
甲斐の国(現在の山梨県)は、その昔、交通の便の非常に悪いところでした。
江戸への流通ルートとしては笹子峠を山越えして行くか、
あるいは駿河の岩淵(静岡県富士市)まで、
人力か馬の背に荷駄をつけて運んで行くしかありませんでした。
しかし今から400年前、
徳川家康から"富士川開削"の命を受けた京都の角倉了以らの手により、
鰍沢から岩淵までの水路が開通したのです。
ちょうど信州往還と駿州往還の交わる地点に位置していた鰍沢は、
この開削によって富士川舟運の要衝地となり、
鰍沢河岸は流通の拠点として大きく発展していきました。
【 鰍沢における、富士川舟運の発展と繁栄 】
■積荷について
当時の主な積み荷は「下げ米、上げ塩」と呼ばれました。
下り荷は甲州や信州から幕府への「年貢米」、
上り荷は「塩」などの海産物が中心だったからです。
陸あげされた塩は、桔梗俵に詰め替えられ、
「鰍沢塩」として甲州一帯はもとより、信州まで運ばれたと言います。
■富士川舟運の運行システムについて
当時、富士川を行き交った高瀬舟は、
鰍沢から岩淵までの約72キロメートルを半日で下りました。
しかし帰りは、船に縄をつけて船頭たちが引っ張りながら、
同じ水路を4日〜5日程もかけて上ったそうです。
(ちなみに、岩淵から江戸浅草へは15日程かかったようです。)
■船頭たちの安全と信仰について
船頭たちは、明神町の七面堂を安全の守り神として深く信仰しました。
本殿内部の柱の金箔や、周りの12支にちなんだ彫刻などから、
そのころの鰍沢の隆盛を偲ぶことができます。
■根付いた伝統と文化について
船は人や物を運び、
鰍沢には、全国から集められた物品・文化・風習が
次々と流れ込み、経済・文化の表玄関として栄えました。
現在も鰍沢地区に受け継がれている「鰍沢ばやし」や「山車」は、
富士川舟運とたいへん関係が深いものです。
例えば「鰍沢ばやし」は、
京都の「祗園ばやし」と江戸の「おはやし」が微妙に混ざっています。
山車は、上半分が浅草風で下半分は京都の御所車風。
かつて4月上旬に大法師山で催された「大法師桜祭り」では、
桜の下、江戸時代から伝わる鰍沢ばやしの笛太鼓に乗り、
賑やかに練り歩く4台の山車が見られました。
県内で最も古いこの山車は、貴重な文化遺産になっています。
その他にも伊豆松崎から伝わったとされるナマコ壁の技術、
伊豆訛りに似ている河内訛りなど、
舟運でもたらされた多くのものが現在の鰍沢に生きているのです。
■宿場町としての繁栄
約7百年前に日蓮上人が開いた身延山へも舟運が便利で、
鰍沢は宿場町としても栄えました。
明治期には生活物資の出入りはもとより、
船を利用しての身延参詣の泊り客や、
東海道線を利用する客でたいへん賑わいました。
【 富士川舟運の最後と、鰍沢の今 】
繁栄を極めた富士川舟運でしたが、
明治44年の中央本線の開通によって物資の輸送が鉄道へと移り、
300年余りのその歴史に幕を閉じました。
しかし終焉から100年以上が経った今でも、
舟運がもたらした様々な伝統や文化、貴重な石碑や資料の数々は、
しっかりとこの町に息づいています。